内村鑑三とキリスト教信仰(無教会)を紹介する個人サイトです。

無教会とは

無教会とは

※記録自体は2003年前後に、18歳頃に始まったキリスト教と無教会の出会いを25歳頃の私がまとめたものです。信仰や宗教にナイーブで免疫のない現代の日本人。そういった我々日本人が苦難に出会ったとき、容易に虚無・絶望に至ります。キリスト教に一時は絶望し混乱した私が無教会キリスト教に漂着した私の体験が、ひょっとして未だに何かのお役にたてるのではと考えて掲載を続けています。

今、あなたは、「無教会」と聞いて何をイメージされますか?

もしかしたら無教会は「教会が無い」という意味だと、お考えになるでしょうか。または、無教会は「教会を無視する」または「教会を無に帰する」ことだと、お感じになるでしょうか。

それとも、無教会という独特の響きに、何か神秘的な魅力を発見されるでしょうか。無教会という魅力的な言葉の中に、既成教会に疲れて、教会生活に幻滅していたあなたは少しの希望を見いだすでしょうか。

もちろん、無教会という言葉を聞いても、全く初耳で、何のことを言っているのかさっぱりわからない方が大多数かもしれません。

無教会。この言葉にはいろいろな方々が様々に反応されると思います。

その反応が反対意見や非難であるかもしれませんし、賛成意見や賞賛であるかもしれません。しかし、無教会という表現に対して、賛成であっても、反対であっても、無教会は様々な誤解を生み出す言葉だと思います。

それでも、私はあなたに無教会というキリスト教信仰のあり方をしってもらいたい。
そういう生き方もあると、気づいてほしいと思います。

キリスト教会の中で苦しむあなたに、役立つ言葉かもしれません。
キリスト教が苦手なあなたに、キリスト教を近づける言葉かもしれません。

少し、無教会について私なりに説明してみます。

無教会に賛成!

例えば、無教会は「反」教会である。教会に行く必要はない。聖書さえ読んでいれば他には一切無関心でよい。他のクリスチャンと交流なしで孤立して信仰は保てる。だからこそ無教会はすばらしい。これこそ本当のキリスト教、これこそ本物の宗教改革である。

このような態度は、教会に反発する典型的な立場といえます。無教会に大賛成という立ち位置ですが、無教会を多分に誤解しています。

無教会に反対!

一方で、無教会は聖書に書かれているキリストの体を否定している。キリスト教の伝統を大切にしない。あまりに個人主義的で交わりを重視しない。エリートだけの学者集団である。だから、無教会は間違っている。

このような態度は、無教会に大反対という考え方ですが、これもまた、無教会を誤解している。そう言って差し支えないでしょう。

私はこのような両極端に偏ってしまう無教会も、無教会の一面を確かに捉えているとは思います。しかし同時に、残念ながらそれは一面でしかなく、全体ではないと思うのです。

私が伝えたいこと 賛成とか反対とかではなくて

私はこのページで伝えたいことは、次の通りです:

無教会は「反」教会ではないこと、
「教会に行くな!」と勧めるものではないこと、
聖書だけ読んでいて他には無関心でよいわけはないこと、
他者との交流を絶って保つような信仰ではないこと、

教会や伝統の破壊者ではないこと、
キリストの体を否定していないこと、
使徒信条にある「公同の教会」を否定していないこと、
学者・インテリのためのキリスト教ではないこと。

ないないない…ばかりが続きました。
では一体、無教会とは何でしょう。

無教会の中心には、キリスト教の中心である主イエス・キリストの十字架がいる。この一言に尽きます。

この一言について、私はこれから、私自身の拙い体験談からお話ししたいと思います。

もし可能なら、より適切に無教会を理解するために、内村鑑三自身の著作に直に触れてください。「内村鑑三を読む」では彼の比較的読みやすい文章を掲載していますので、ご利用ください。特に、十字架教という文章には彼が十字架を何よりも大切と考えていたことがわかります。

定義のようなもの

まず始めに、あるキリスト教の資料集にある無教会(主義)についての事項から始めましょう。そこに書いてあることと、私自身の経験を照らし合わせて、比較します。そうすると、私があなたにお伝えしたいことが、もう少しはっきりしてくるかも知れません。

<無教会(~主義)> 独立伝道者・内村鑑三(1861~1930)が既成の教会制度や組織を批判し、提唱した日本独自のキリスト教のあり方。内村は、キリスト教の本質はイエス・キリストの贖罪に基づく福音の自由な霊的生命としてとらえた。その影響により、聖書研究を中心とした「無教会」の「集会」が各地に生まれ、後継者らに引き継がれている。「無教会」の指導者には、塚本虎二、矢内原忠雄、南原繁、関根正雄、高橋三郎ら著名な聖書学者、研究者、教育者が輩出されており、広く日本のキリスト教界、言論界に影響と人格的な感化を与えている。 (いのちのことば社: クリスチャン情報ブック2002資料編ウェブ版)

内村鑑三が提唱した

この解説によると、無教会は内村鑑三が提唱したとあります。確かに、一応はその通りです。しかしそれは内村鑑三が新しい主義を作った、という意味ではありません。

内村鑑三より前の無教会

イエス・キリストは無教会主義者だった。これが内村鑑三の考えです。実際、内村鑑三は彼の著作の一部で

無教会主義は不肖私が初めてこの国において唱えた主義ではありません。(教文館:内村鑑三信仰著作全集18, 105p)

と書いています。そして内村に言わせれば、例えば、預言者エリヤ、アモス、イザヤ、エレミヤも無教会主義者であり、宗教改革者として有名なルターも、最初は無教会主義でした。(教文館:内村鑑三信仰著作全集18, 89p, 104-5pより)

内村鑑三が無教会という言葉を使うとき、彼はこのように、主イエスをはじめとして聖書に登場する先輩たちのこと、そして宗教改革者たちのことを強く想っていました。この立ち位置の確認は、無教会を理解するときの大原則と思います。

教会の問題

それでは、内村鑑三はなぜ改めて無教会を主張しなければならなかったのでしょうか。教会に何か問題があったのでしょうか。私には内村鑑三の時代の教会事情は分かりません。そのため、私自身の経験から考えてみます。

教会の問題とは何か。それは、教会に通っていると教会生活・教会経営の陰に主イエスが隠れてしまうこと。教会が大きすぎて主イエスが見えなくなっていること。主の十字架が教会という霧の中に隠れてしまって見えなくなっていること。私はそう思います。

教会の関係者の方々からは、もちろん反論はあるでしょう。しかし、一人の平信徒として教会生活を送るとき、残念ですが、そういうことが実際にありえると思うのです。私自身も、ある程度は経験しているといえます。

なるほど、確かに教会はキリスト教を2000年間受け継いできた。聖書も十字架も忘れることなく、イエス・キリストに従ってきた。確かに、そのとおり。議論の余地なく、教会の果たした役割は大きいのでしょう。

一方、無教会的なキリスト教運動も、同じように現れては消えることを脈々と繰り返してきた。歴史上で繰り返してきた。教会とは異なる用いられ方で、聖書と十字架の維持に貢献してきた。天の父なる神様の計画に従って、そういった小さな運動も聖書と十字架を伝え広めることに貢献させられてきた。このようにも思うのです。

信仰生活の中に、優先順位をつける

この問題のポイントは優先順位ではと思います。何を最も守るべきで、何を捨てるべきか。この判断の違いが、教会と無教会の間で生じているのかもしれません。

内村鑑三は、十字架が一番大事で無教会は二番目か三番目に大事だといいます。無教会を理解する上でのポイントは、信じている内容そのものではなくて、信じている内容の優先順位です。

何が一番大切で、何が二番目三番目に大切か。そして、一番大切なことを、本当に一番大切にしているか。この優先順位を特に熱心に吟味しているのが無教会ではないでしょうか。

日本独自のキリスト教

解説には引き続き、「日本独自のキリスト教のあり方」とあります。一般的には妥当な表現でしょうが、明かな違和感もあります。なぜなら、無教会クリスチャンとしては、無教会の根っこはイエス・キリストと考えるので、イエス・キリストが日本独自であるような印象を受けることになり、違和感を生じるわけです。

なぜ違和感か。私の場合は、日本独自と考えると、自分の先祖が無教会を生み出したと考えるようになります。そしてその子孫であることに、誇りを感じるようになります。しかし、そのような誇りは信仰生活にはあまり有用ではありません。誇りの副作用もあるかもしれません。

天地創造の神が内村鑑三を利用して日本国内に発生させた一つの運動が無教会である。こう考えましょう。われわれ日本人の個性や独自性が成し得た業績というよりは、天地創造の神が欲したから、欲したままに生じた。神の計画が実行された。

無教会を、日本独自と考える場合と、天地創造の神の計画と考える場合を比べると、後の方がより適切・冷静・キリスト教的であると思います。

実際、無教会は韓国にもあります。昔々、日本の無教会の先輩方は台湾に伝道に行きました。内村鑑三が出していた「聖書之研究(せいしょのけんきゅう)」という月刊の伝道雑誌はアメリカ合衆国でも購読者がいました。彼のような信仰のあり方を欲するクリスチャンは、国内にもいるし、国外にもいる。この見方がより事実に即していると思います。

さらには、イギリス発祥のブレズレンやクエーカーがいます。大陸ヨーロッパで生じたメノナイトがいます。これらの教団は良心的兵役拒否を主張し、歴史的平和教会(historic peace churches)として知られているようです。私見ではとても無教会な信仰のあり方です。

平和主義からみると、無教会クリスチャンも内村鑑三の「非戦論」をはじめ、第二次世界大戦中に戦争体制に組み込まれなかったキリスト教徒を生み出したことで知られています。

日本の無教会が海外にもあった。海外には無教会な信仰のクエーカー、メノナイト、ブレザレンがいた。このことから、無教会を「日本独自」からもう少し幅を広げて考えてみても、良いと思います。

聖書研究を中心とした「無教会」の「集会」

無教会にも皆が集まる場所があります。無教会は「集会」を持っています。そこでは独りで礼拝するのではなくて、主イエスを信じる仲間がいます。

内村鑑三は、信仰は一人で維持するものではないと言います。

キリスト教信仰は、ただ唯一の神を信じること。そして神は全ての人々のお父さんである。そうすると、神を信じると、神に従うと、自然と人を愛するようになる。愛する相手がいなくては愛は存在できない。信仰と愛は自分で独り占めするものではなくて、相手に分け与えるものである。だから信仰を持つ人は、互いに集まり集会を形成してゆく。内村はこのように言います(教文館:内村鑑三信仰著作全集18, 21p参照)。

「無教会はたった一人きりで信仰を守るから、人と交流はしなくてよいのだ」という考え方は、無教会な感じがしないのです。

教会と集会の違い 教会と無教会の違い

無教会の中の「教会」という文字は、教会生活とか教会主義という意味だと、私は感じています。つまり、キリストのからだとしての教会ではなくて、物事に優先順位を付けた時に、一番大切ことを、一番大切にできなくなった教会の状態です。

教会とはギリシア語のエクレシアの翻訳だと聞きました。この単語は集会とも翻訳できるそうです。そう考えるとき、無教会が集会をもっている事実から、無教会は使徒信条に記されている「公同の教会・普遍の教会」を否定するのではないことがわかります。

無教会も教会も、そういう意味では区別がないと、私は思います。(内村鑑三も、他の教会を尊敬するといった文章を残しています。「教会に対する余輩の態度」参照。)教会に通う無教会クリスチャンもありです。では、なぜ無教会は教会にならないのでしょう。

教会になると十字架が中心からぶれる頻度が上がる。可能性としてあり得ると思います。そして教会制度のそういった危うさに、無教会クリスチャンは気がついてしまう。

それはおかしい、優先順位を考えたときに、一番大事なことが一番大事にされていない。それは十字架第一ではない。無教会クリスチャンはこう考えてしまう。そして、どうにもこうにも教会の内側に居場所がなくなってしまって、教会の外側で無教会になってしまっている。

でも、それでも、礼拝する場所が欲しい。

イエス・キリストを礼拝することで自分のいのちが生きるのだから、礼拝する場所が欲しい。礼拝なくして、いのちなし。礼拝せずにこの世をさまよえば、私は程なく枯れてしまう。

このように考える仲間が集まり、集会を始めてしまうのではないでしょうか。無教会というクリスチャンのグループを、そのようにとらえてみては如何でしょうか。

聖書研究のやりかた あまり硬くならずに、祈りによって

無教会の集会は「聖書研究」を中心としていると書かれています。聖書研究とは、

聖書を読み、祈って、
また翌日同じ箇所を読み、祈って、
また翌々日に同じ個所を読み、祈って、

これを繰り返すことであると、私の集会の先生から教わりました。その先生は上に書かれたように聖書を1週間続けて読んで、日曜礼拝のメッセージ(聖書講義や聖書講和といいます)を準備されるそうです。

試みに、私もやってみました。そうすると、確かに、繰り返し読むことで、同じ言葉なのに新たな意味が与えられてうれしくなる体験をしることができました。

祈りながら読むというところがポイントのようです。個人的には、祈らなかった時と比べて、祈ったときの方が、より新しい気付きを聖書から受け取ることができたようです。

無教会の聖書研究とは、聖書の言葉に始まり、聖書の言葉に終わる研究といえます。そこに常に祈りが伴うことがとても大切です。そこから、無教会の礼拝の中心である聖書講義が出てくることになります。

研究というと、研究してキリスト教を壊してしまうのではないだろうか、とお考えになる方もいるかもしれません。

心の底からの祈りと賛美を伴う聖書研究では、そのようなことはありません。なぜなら主イエスが聖書研究のその現場に、同席しておられるからです。イエス・キリストがスーパーバイザーという理解の仕方です。

教会と無教会の違い

今までの話を聞かれて、どうお感じになりましたか?

無教会の礼拝も、教会の礼拝と変わらないと思われたかもしれません。たしかに、要点は全く同じであると、私も思います。しかし、違いはあって、ポイントは相も変わらずに優先順位です。

次に、聖書、政治、成功哲学の3つ方面から教会に対する私個人の印象をお話しましょう。そして、無教会では一体どうなのかについて考えてみたいと思います。

聖書の話が少ない

私の個人的な印象では、一般的なキリスト教会の説教では聖書の話が意外に少ないと考えます。それでは、説教では聖書以外の一体何が語られているのでしょうか。それは、例えば、何気ない日常の出来事が語られます。この世のあれやこれや、です。

そしてこの世の悶々とした出来事から、聖書の話に移行するわけです。でも時にはこの世のあれやこれやだけで終わり、ということもあるでしょうか。もっと神の言葉としての聖書に耳を傾けたいクリスチャンには、少々不満が残ります。

政治の話が多い

例えば、時事問題が語られます。戦争反対、憲法問題、平和主義などが語られます。しかし、聖書とは何の関係もないかのように、そしてそれで何の問題もないように話が進みます。

これでは礼拝とはいえません。政治家や人道主義者(ヒューマニスト)の演説でしょう。もちろん、時事問題それ自体はとても大切です。困るのは、聖書から切り落とされた社会問題は、クリスチャンの信仰に対して有益というより有害な場合が多いということです。

説教は、どんなことでも聖書に基づいて話が進むこと。これがとても大事です。時事問題を話す場合も、聖書から出発し、聖書に戻ってくる説教が必要でしょう。聖書から右にも左にも逸れないことが大切になります。

成功哲学で幸せになりたい

例えば、処世術が語られます。ビジネスで成功するにはどうすればよいか、世の中をうまく渡り歩くにはどうしたらよいか、そういった成功哲学が取り上げられます。

とても大事な話です。しかしここでも、聖書から始まって、聖書に終わる説教が必要でしょう。聖書に戻ってくることが大切といえます。何より私が注意を喚起したいことは、世の中にあふれる成功哲学の根っこには別の宗教があるかもしれないということです。知らずに別の神を拝むことになりかねません。

まとめます。

教会の説教で起こりうる問題とは、聖書から脱線してしまうということ。そして聖書以外のこと、政治や資本(金銭)や他宗教などがいつの間にか入り込んでしまうこと。

そして、繰り返しになりますが、優先順位の混乱です。

聖書、政治、資本(金銭)、成功哲学で、どれが一番優先されるかということ。そして説教の現場で、優先順位にどのくらい敏感でいられるか、優先順位の吟味がどのくらい熱心になされているかということ。ここに無頓着なのが、教会の説教の問題のように、私は感じてしまうわけです。

無教会ではどうか

無教会の説教は「聖書講義・聖書講話」と呼ばれます。名前の通り、聖書の話が大部分を占めています。

この世のあれやこれや、ビジネスチャンスのつかみ方等に触れることは、良くも悪くも、少ないでしょう。

時事問題には、無教会は強い関心を示しますので、たくさん話が出てきます。しかし、聖書に立ち返り、聖書に基づいて判断する傾向が強いといえます。例えば、旧約預言者の痛烈な社会批判に学ぼうとする姿勢は健在です。

何事も神の言葉を伝える聖書に聞くこと。あらゆる問題の解答をそこに求めること。もっと聖書に聞く、もっと聖書に問題解決を求める。それを意識し続ける。無教会はそのような態度で、礼拝の中で聖書をとても大切にしている。それが、教会と比べるときに際立ってくると思うのです。

礼拝の中心に聖書を持ってくる。説教の中心に聖書をどんと据え置く。聖書を中心に置くということは、聖書の伝えるイエス・キリストを中心に置くということです。キリストが礼拝の中心にやって来るということです。

教会と無教会はいつでもひっくりかえる

ここで一つ大事なポイントがあります。

教会の説教をかなり批判的にお話しました。

しかし、無教会的な教会も、逆に教会的な無教会も、十分にありうるということです。

これは強調しても、しすぎることのない重大なポイントでしょう。

なぜか。

無教会は形式よりも状態に近いのかもしれません。
つまり、無教会は
組織よりも運動
固定的よりも流動的
静的よりも動的
名詞、よりも形容詞
かもしれないということ。

だから、教会も無教会になるし、無教会も教会になるわけです。

無教会の指導者

無教会には神父・牧師というような聖職者がいません。プロテスタントがいう万人祭司主義を実行しているからだと、よくいわれます。

私は個人的には、万人祭司主義よりも「万人平信徒主義」や「万人伝道者主義」の方が、無教会をより適切に表現していると感じます。「だれでも祭司主義」「だれでも牧師主義」ともいえるでしょうか。

実際、無教会はミッション系団体に頼らない独立した伝道者(独立伝道者といいます)を多く生み出しました。そして文書伝道にとても熱心でした。

無教会クリスチャンは宗教法人から認定された資格もないままに、福音の喜びに動かされて伝道を始めたわけです。

私自身、初めて無教会に接したのは、内村鑑三をはじめとした代表的な独立伝道者の文章でした。

その文章は、福音の衝撃に溢れていました。それは、内村鑑三自身の言葉を借りて、誤解を恐れずに言うなら福音のダイナマイトでした。

おわりに

これで私の拙い経験談はおわりです。まず、無教会への賛成と反対の極論を取りあげました。次に、キリスト教資料集の解説と私の経験を比較しながら、私の感じる無教会を伝えようと努めてきました。

今、あなたの無教会はどのようになっていますか。キリスト教の中心で聖書の中心であるイエス・キリストに出会う方法としてどうか無教会が用いられますように。

(2013年12月22日 表現等のマイナーチェンジを実施)

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